自己紹介

 
はじめまして
私は、杉山 剛と申します。
1971年横須賀に生まれ、幼少期から中学2年の夏まで横浜、それから結婚するまで鎌倉に住み、結婚後は藤沢、海老名と移り住み、今は実家に身を寄せている状況です。
子供の頃からお話ししたいと思います。
私の子供の頃の家庭環境は、バスの運転士とパート勤めの母親と非行に走った妹と
障害を持った弟の五人家族でした。
父は、酒、ギャンブル、ゴルフ等、自分のことにはお金を使うことはいとわない人
でしたが、母はもちろん子供たちに使うお金は惜しいという人でした。
母の話では、毎月20万(生活費として)を入れていたようです。
その金額から家賃、高熱水費を払った残りが生活費だったようですが、父は毎日、帰宅後、晩酌をしていたようですが、その際、刺身等毎日違うものを要求。
夕飯も特別に用意していたそうで私たちは毎日のように納豆だけとか、よくて野菜炒めという食生活でした。
もちろん、どこかに連れて行ってもらったり、遊んでもらったという記憶は一切ありません。
それから、私に関しては小学校の頃からずっとしたかった野球をさせてもらうことができませんでした。
それだけは、自分ではどうにもできなかったことですが、今でも後悔(引きずって)しています。
父は、帰宅途中にあるパチンコ屋に寄っては「あと少しで出るから2万を剛に持ってこさせろ」と夜9時に自転車で届けさせられたこともありました。
そういった状況でしたので、母は生活費が足らずパートをしていましたが、母が稼いだ金額分を20万から差し引いていたようです。
妹は家出、万引き等で何度も警察沙汰・・・
弟は先天性の身体障害者だったので、弟がまだ赤ちゃんの頃から入退院(手術のため)
を繰り返していましたので、その間、小学校4年生頃だった私は炊事、洗濯等を任されていましたが、その間、妹びいきの父と妹には洗濯物をたくさん出されたりして
大変な思いをしました。
父親はいたいげな子供に平気で嘘をつく人でした。
私たち兄弟に「車を洗ったら、西武球場に連れてってやる」と言われ三度騙されました。もちろん、四回目以降はどうせ嘘だと洗車はしませんでした。
また、ほとんど家にいない父親でしたが珍しく土曜日や日曜日が休みに当たったとき(ほとんどは一日中寝ていましたが・・・)、「野球でもやるか?」と言ってくるのです。近所にと言っても自転車(父親は原付です)15分くらいの場所だったでしょうか。米国の通信隊というところに行くのですが、「野球」のはずが父親のゴルフの打ちっぱなしの球拾いを散々させられ、ボールがなくなると探し方が悪いだの散々文句を言って、最後に父親がピッチャーで5〜6球思い切り投げて(子供が打てるはずもありません)、「オレは先に帰るからな」と原付で帰っていくのです。
そうそうたまに家で起きてると思うと昼間から女を堂々と連れ込んでいました。
 
小学校6年生の頃、妹、弟のことが原因でクラスでイジメにあったこともありました。
弟のことは何を言われても平気でしたが、妹のことは妹に対して本当に許せない気持ちでしたし、辛かったです。
そんなとき、隣に座っていた女の子が「三人も兄弟がいれば一人くらいおかしいのがいるよ」と慰めてくれました。
そのときのことは30年近くたった今でも忘れたことはありません。
とても嬉しかったし、気持ちが楽になったものです。
小学校5〜6年の頃、仲良くしていたつもりの友達が卒業アルバムの卒業文集に「杉山にいじめられた」と書きました。
僕にはいじめているという意識はなかったのですが、その友達からするといじめられたと感じていたのでしょう。
中学に入るとそのことが原因でひどいイジメに遭いました。
それはそれは壮絶でした。
クラス全員から無視・・・
時には男子数人に黒板の前で羽交い絞めにされ、殴られたこともありました。
今時の子供だったら自殺していたかもしれません。
私は、いじめられていた頃、私を支えていたものは三つありました。
一つ目は母がよく言っていた「人の噂も75日」という言葉。
二つ目は毎日朝から晩までパートで父親のことや弟のことで苦労している母に心配はかけたくない。(毎日、誰もいないときは号泣していましたが母の前では努めて明るく振舞いました。ちなみに25年たった今も母は私がそれだけのイジメに遭っていたことは知りません)
三つ目は、「今、いい仕事に就いていじめているこいつらを顎で使ってやる」
というこれらを励みに辛い毎日を過ごしました。
当時、母は「氷雨」という歌が好きでラジカセで聞いていました。
行きたくない学校に行く時間にそれが流れていたので、「氷雨」にはなんの罪もありませんがとても嫌いな曲です。
そんな僕の学校生活に変化が訪れたのは、中学2年に進級してからです。
当時私の学年は10クラスあったため、イジメをしていた連中とクラスが別れ、校舎も遠くに離れました。
そのクラスで私はなるべく明るくし、早めに友達を作るよう努力しました。
その結果、クラスでは人気のある方になりました。
しかし、その夏・・・
両親が離婚することになりました。
前述のような父親です。
慰謝料なんて払うはずもなく、母は「弟は連れて行く」と言いました。
妹は栃木の鬼怒川にある教護院に入所中。
私は母がお金がないことも知っていたし、弟のことだけで大変だとわかっていたので、父親の元には残りたくありませんでしたが、僕は泣きながら母にこう言いました。
「僕はお父さんの元に残るよ。そして、高校を卒業したらお母さんを迎えに行くから」と言いました。
母も泣きながら「お金がないからすごく貧乏な生活で苦労してもよければお母さんのところについておいで」と言ってくれました。
そして、母の姉が住む鎌倉に引越してきました。
当然、生活保護を受けながらの貧しい生活でした。
お茶葉が買えず白湯を飲んだり、弁当のおかずが納豆だったり、おかずのスペースがちくわの穴にきゅうりが入ったやつだけだったり、弁当は恥ずかしかったです。
でもね、あんな父親でも父親は父親なんだなって実感したこともありました。
中学から帰宅して誰もいないアパートに入ると「もう、お父さんは帰って来ないんだ」って思うと涙が止まりませんでした。
 
鎌倉の中学は横浜の中学とは違いとてもすさんだ中学校でした。
でも、一つ上に番長をしていたいとこが私の代の番長らに釘をさしてくれたそうで、いじめられることもなくとても快適に残りの中学生活を送ることができました。
私は、このことに関してとてもいとこに感謝しています。
鎌倉に来て、とても重大な局面を迎えました。
それは進路の問題です。
母は「公立に行ってくれ。私立に行かせるお金はない」と常々言っていました。
親戚たちからは「剛、お前は長男なんだから、これからはお前が父親の役目もしなければいけない」とプレッシャーをかけられました。 
私は迷わず「中学を出たら働きながら高校に通おう」と思い、母に告げました。
母は「本当にそれでいいのか?」と言ってきました。
母には言いませんでしたが、私は少しでも稼いで母に楽にさせたいと思っていました。そして、妹や弟には大学まで行かせたいという風にも思っていました。
結果的には妹は中卒、弟は養護学校(私は母に頭は普通なんだから普通の高校に行かせるべきと何度も話しましたが)卒です。
 
私は工場等で作業着着て、真っ黒になってというのをしたかったのですが、担任の先生がとっても親身になってくれ、公務員(神奈川県職員)を勧めてくれました。
職安の方からは「杉山君は就職組の中では成績はいい方だけど無理でしょう」と言われ、担任の先生からはどうするか決断を迫られました。
私は特に悩むこともなく「模擬試験だと思って受けるだけ受けてみます」とお願いしました。
私の初任給は7万円ほどだったと記憶しています。
ボーナスのときには、自分が買ってもらえなかった当時流行っていた「5段だったか6段だったかのスポーツ自転車」を弟にプレゼントしました。
まあ、弟はもう覚えてないみたいですが・・・
 
公務員の試験は残念ながら落ちました。
他に応募していた会社も打診だけでダメで他を探していたときです。
学校に県庁の偉い方が校長と担任に会いに来たそうです。
先生の話では「点数的には合格している点数だったけど、受けた人の中で年上の人から採用する関係上、不合格にしたが来年も受験すれば必ず合格できるので一年間非常勤職員として働かないか?」という打診があったとのことでした。
私は嬉しくて即答しました。「お願いします」と。
先生は「うちの中学でははじめてのことだ」と喜んでくれました。
そして、一年間、1日働いたあとに定時制高校に通学しながらもサッカー部に所属し猛勉強し、翌年には見事合格しました。
私は部活動もさせてもらえなかったので上下関係というのをまったく経験したことがなかった上、その職場は上下関係(高校生だけでする仕事だったので)が厳しく、何度も辞めたいと思いました。
当時から32歳までの私は勉強も仕事も絶対誰にも負けないという強い気持ちを持っていました。
ただ、合格したことに素直に喜べない自分もいました。
それは、同期で非常勤職員で入った友達が不合格となりチャンスはまだあったのですが、辞めてしまったことです。
「辞めないで来年もう一回受験して」と説得しましたが彼の気持ちは固かったです。
その4月から正職員として三年間働きました。
伝統は大切だとは思いましたが、先輩たちに自分たちがされてイヤだったことはしないようにしました。
 
その後は、県税事務所を二ヶ所7年、県立高校事務を12年半の合計23年半勤めました。
その間、23歳のときに最初の結婚をしました。
最初の妻とは割りとうまくいっていたと思います。
結婚当初、私の手取りは15万円。
職員アパート(築30年)でしたので、家賃は安かったとはいえ、その中から車のローンが2万5千円ありましたので、元妻には結婚するにあたって働いてもらわないといけないということは話していたのですが、なんだかんだ言っては働かず、かといって家事もきちんとしている訳でもなく、近所の奥様たちからは「杉山さんの奥さんは外にも出てこないけど何しているのかしら?」と噂されていたようです。
当時、住んでいたアパートは湘南の海がすぐ近くでしたので湿度が高く、コマめに掃除をしないと物はすぐにカビたりする状態でした。
あるとき、部屋の壁がカビで真っ黒になったことがあり、私は元妻に「どうして掃除をしないの?」と聞くと「こんなボロい家じゃ掃除する気にならない。新築なら掃除する。」と言いました。
私はとても悔しかったです。
自分は働かないのに要求ばかり・・・
30歳のときに海老名に新築マンションを購入しました。
その物件は展望風呂サウナ付というもので私も元妻も気に入ったし、なんと言っても元妻の姉が徒歩5分圏内に住んでいるので、元妻も全く知らない土地に行くよりはいいんじゃないかと配慮したことが大きかったのです。
しかし、新築に引っ越しても彼女は掃除をしませんでした。
私はまた彼女に同じ質問をしました。
彼女は「新築とは言ったけど、マンションとは言ってない。本当は新築一戸建てに住みたかった。」と言いました。
本当に悔しくて・・・
その二年後、私は上司によるパワーハラスメントが原因で突然の吐き気とひどい眩暈に襲われました。
仕事を休んで海老名総合病院に行きましたが異常はないので二週間分眩暈を止める薬を飲むようにと言われ飲みましたが、少しもよくならなかったので再度同じ海老名総合病院に行きましたが、話だけ聞いてまた同じ薬を処方されたので、「この病院じゃダメだ」と思いました。
そのときの私の状態はクラクラしててまっすぐに歩くことはできないし、地面が近くなったり遠くなったりで、車の運転も微妙に揺れていたはずです。
吐き気も相変わらずでした。
やっぱり、大学病院に行かないとダメだなと思い、東海大学病院(伊勢原市)でMRIなどいろいろ検査を受けましたが結局最後に医者から言われた言葉は「あなたは病気じゃないので、うちであなたにしてあげられることはありません」とかなり冷たく言われ追い返されました。
私は、「きっと、何かまだ発見されていない難病か脳腫瘍」なんじゃないかという不安と、もしかしたら死んでしまうんじゃないかという恐怖と闘っていました。
ネットでいろいろ調べていたら、鍼灸治療が眩暈にいいような記事を発見したので、地元の鍼灸治療院のホームページを発見しました。
確か「有馬鍼灸治療院」だったと思います。
ただ、保険が利かないので一回4千円かかるので悩みました。
ホームページから質問メールをしてみたところ、3ヶ月通えば治りますと力強いメールをいただいたので早速行ってみることにしたのです。
二週間後に一時的に治った感じがしました。が、一週間程度ですぐに元に戻りました。
保険が利かないのになぜか保険証を毎回提出させられ、あるとき、先生から「眩暈じゃ保険が通らないから頚椎捻挫で出しておくから」と言われました。
私は、てっきりお金に困っている私のために保険適用をしてくれるんだ。なんていい先生だろうっておもったのもつかの間・・・
私の治療費は変わらずでしたので、おそらく、保険の方も請求して懐に入れてたんでしょう。
そのとき、「人は結局自分がよければそれでいいんだな。人の弱みにつけこむんだな」と思ったものです。
最初に聞いた3ヶ月を過ぎても全くよくならなかったので鍼灸治療院に通うのはやめました。
正直、そのあとは、「絶望感」だけが残りました。
なんの病気だかわからないし、病院じゃ病気じゃないから、あなたにしてやれることはありませんと言われるし、一生、この苦しみを背負っていかなければいけないのかと思うと本当に辛かったです。
鍼灸治療院に通うのをやめて七ヶ月ほどたった頃、息子の幼稚園のお友達のパパが体調が悪くて、地元の病院に行ったらなんでもないといわれたのに北里大学で病名が「橋本病」だとわかったという話を耳にしました。
私は一瞬、真っ暗だったトンネルの先に光が見えた気がしました。
私も早速、北里大学に行き「総合内科」の先生に診てもらいました。
症状を先生に話すと先生は「がんばりすぎちゃったね」と優しくいってくれました。
そのときは、涙をこらえるのが精一杯でした。
先生は「自律神経の病気の可能性があるから、今日、処方する薬を一ヶ月飲んで治らなかったら近所の心療内科に行きなさい」と言ってくれました。
そして、一ヶ月飲み続けても症状がよくなることはありませんでした。
正直、私は、強く生きてきたつもりだし、精神的な強さには自信を持っていたし、メンタル系の病院に行くことには抵抗がありました。
なぜなら、私自身が「メンタル系の病」に対して偏見を持っていたからです。
勇気を出して発病から1年2ヶ月後に相州ビナシティメンタルクリニックに行きました。
先生はなんだかうつ病かなって思うような感じの先生で頼りない感じすらありましたが、そこで初めて「パニック障害です」と病名を告げられました。
自分がメンタル系の病になるなんて嘘だとなかなか受け入れることができませんでした。その反面、発病から1年2ヶ月病名もつかず他人からは仮病じゃないかと思われていたので病名がついたことが嬉しかったりもしました。
そこで、先生は「パキシルといういい薬があって半年ほど飲めばよくなる」というのでがんばって通院して半年過ぎましたがよくならず、薬がどんどん増えていき・・・
薬の副作用でどんどん悪化しました。
先生は「休養が必要だと判断します」と私に告知しました。
私は家に帰り、元妻に先生に休養すべきだと言われたから、少し休みたいと話したところ、元妻は「車と家のローンはどうするのよ」と一言だけでした。
病気に対する理解もなかったし、理解しようとも思っていなかったようです。
 
1年ほど経った頃、現在通院している病院に転院をし、よくなったり、悪くなったりを繰り返している状態です。
 
その間、病気発症から五年後に「もう元妻に文句は言わせない」とマンションを売却し、同じ海老名市内に土地を購入し、注文建築で元妻の好きなように間取りやキッチン等オプションにもないものをつけたりさせました。
同じ時期に元妻の母親が65歳で定年退職でひとり暮らしで、元嫁の兄も弟(同時期に戸建て購入)も母親を引き取るつもりはないと言っていたのを元妻から聞き、ひとりぼっちになってしまう元妻の母親がかわいそうに思えてしまって、私は、部屋を増やして設計の上、「お義母さんさえよければ、車も大きいミニバンを買って一緒に暮らさないか?」と元妻に提案しました。
元妻は「いいの?」というので私は快諾したのです。
 
この家に住むようになってからが地獄でした。
最初の頃こそ、二人は感謝してくれていましたが、3ヶ月も経つと義母が私を無視するようになりました。
というのも、義母は毎日出歩き、ひどいときは朝帰りなんてのも日常茶飯事でした。
私は行き先や帰宅時間も聞かない元妻に「預かっている以上、それなりの責任があるのだから、行き先と帰宅時間くらいは聞いておくべきだ」と話しましたが、元妻は「そんなことできない」と言っていましたが、義母には「剛がお母さんのこと悪く言ってる」ようなことを吹き込んでいたようです。
その後、まもなく私は仕事から帰宅すると誰もいないリビングで私一人で夕食を摂らされるようになり、私が部屋に移動するとみんながリビングに集まり家族団らんをするようになったのです。
自分の家であって自分の家じゃない状態でした。
私は、辛かったし子供のためにも最悪の事態は避けたかったので、元妻には再三にわたり「お義母さんの態度はよくない。今のままだったら家族崩壊してしまう」と話しましたが、「そんなことはいえない」の一点張りで、あるとき、同じことを話したとき元妻は私に「離婚する」と言いました。
私は子供たちのためにも離婚はどうしても避けたかった。
だから、必死に説得しましたが彼女の意思は固かったのです。
長男は小学3年である程度はわかる年齢でしたから、私は長男に「お父さんとお母さんは離婚することになったんだ」と話しました。
長男は泣きながら私に「どうして?誰が決めたの?」
私は正直に「お母さんが離婚したいって言ってるから」と言うと
長男は元妻に「どうして離婚するの?」「お願いだから離婚しないでよ」「お父さんが何を悪いことしたっていうの?」と何度も言ってくれました。
長男はこんなに小さいのにちゃんと私のことを見てくれていたという気持ちで涙が止まりませんでした。
 
どうやら、元妻らは家を慰謝料代わりに取るつもりだったようです。
ただ、当時あった預金のすべてと家財道具で必要なものはすべて持っていかれました。
私は、緊迫した空気の自宅に帰宅することができなくなり(自宅に近づくとパニック発作が出てしまいました)、鎌倉の実家に身を寄せていましたが、私の母親が「こんな宙ぶらりんな状態はよくないし話に行ったほうがいい」ということで母と二人で話に行きましたが、元妻も義母もものすごい剣幕で話になりませんでした。
元妻は「いいよ、いいよ、弁護士(市でやってる無料相談だったようです)さんに相談に行こう」とそのまま自宅を出て行きました。
私の母親が「市のサービスでやってる弁護士なんて大したことしてくれないんだよ。こっちは有料の弁護士さんに相談に行こう」と言うので私は徹夜して、ノート一冊に結婚してから離婚騒動に至るまでの経緯を書き、弁護士さんに相談に行きました。
弁護士さんの答えは「杉山さんに落ち度はないので慰謝料も支払う必要はないし、家も杉山さんの家なんだし、既に離婚届が提出されている以上、家に居座るのは不法占拠にも当たるので、いついつまでに家を出ると念書を書かせるように」と指示をいただき、子供に関しても元妻が会わさないと言っても「親には子供と面接する権利があるので子供が拒否しない限り会うこともできる」とのことでした。
私には二人の息子がいます。この時点では二人とも元妻に託すつもりでした。
なぜなら、自分の経験上、子供は母親と暮らすのがしあわせだと思っていたため、親権も二人とも元妻にしていました。
引っ越す期限を念書に書かせ、私は息子たちに最後の別れの言葉(私の想い)を伝えたのです。
すると、長男は「お父さんと暮らしたい」と言ってくれたのです。
とても嬉しかったです。
でも、下の子は当時まだ3歳で「ママ、ママ」でしたから私は下の子も引き取りたかったのですが、下の子を母親から引き離すことは考えられなかった+兄弟を引き離してしまうことも考えられなかったのです。
本当に悩みました。
自分の親も含め、いろいろな人に相談しました。
その中で「長男の意思を尊重してやることも必要なんじゃないか」という意見が多かったので、私は長男を引き取ることを元妻に伝えました。元妻は悔しかったようで、ものすごい形相で長男に「長男は、小さい頃からお父さんに野球を教えてもらったり、二人でいろいろなところに二人で行ったりしてたから、お父さんのことが大好きなのはわかってる。本当にお父さんと暮らすの?」と強く迫っていました。
長男は、「うん」。
私は元妻にこう言いました。
「長男の親権は元妻にある。でも、本人の意思を尊重していこう。ただし、私たちは離婚しても子供たちの親であることは変わりないのだからお互い連絡を取り合ってやっていこう。その代わり、携帯代も全部私が支払うし、次男の通帳に毎月入れるから。で、長男が会いたいと言ったときは会ってやってほしいし、運動会も見に来てほしいと言ってるから見に来てやって」と話しました。
そして、離婚後に元妻らが困らないようにと市役所に一緒に生活保護の相談にも行きましたし、不動産屋も回ってアパートも自宅に比較的いい物件があって仮押さえをしましたのですが、彼女は私に居所を知られたくなかったようで結局、全く別のところに住んでいるようです。
 
元妻らが出て行ったあと二人暮らしを始めたのです。
二人暮らしを始めて少し経った頃、長男が「お母さんと会いたい」と言ったので私は長男に「電話してごらん」と言うと長男は元妻の携帯に電話をし、長男は「会いたい」と伝えると元妻は「なんで?」と冷たくあしらったようで電話を切った後、長男は泣いていました。
そういう対応をした元妻に対し、とても腹ただしく思いました。
少ししての運動会にも結局見に来ませんでした。
私は電話で「どうして、来なかったのか」と聞いたところ、元妻は「知ってる人に会ったらイヤだから」と・・・
私は、「親じゃないな」と思い、携帯も次男の定期預金も解約したのです。
どっちにしても、元妻は次男を私に会わせるつもりはないんだし、一人ずつ引き取ったのだから、一人を責任を持って育てていけばいいんじゃないかと思うようにしました。ただ、もし、次男がいつか私を頼ってきたら、親としてできることは何でもしてやりたいと思っています。
 
離婚から八ヶ月たった頃一人の子持ち(私の長男より2歳上の男の子)の女性と出会いました。結婚したいと言われました。
付き合っていた頃は、気立てもよくて、「あなたの子供は私の子供なんだから」と言ってくれたり、病気のことも受け入れてくれたので「この人なら大丈夫」と思い、その三ヵ月後に結婚しました。
が、ちゃんとした食事を作ってくれたのは本当の最初だけで、婚姻期間の一年五ヶ月一度も掃除もしませんでした。
前妻に「どうして掃除しないの?」と言うと「子供たちがしないから」とチンプンカンプンな答え。私の頭の中は「???」
食事はかろうじてやっていましたが、カレー、シチュー、ハヤシライス、水餃子の繰り返しだったので、「こういう食事じゃ子供たちの栄養バランス的に悪いんじゃない?」と聞くと「イヤだったら食わなきゃいい」。これには絶句しました。
 
結婚して半年後に公務員を辞職しました。
理由は二つあります。
一つ目は前妻のおかげで病状が悪化し、校長も事務長もメンタルヘルスに理解のない管理職の資質のない人間だったこと。私は仕事が速いのでいつも余裕そうだったようで、校長、事務長からは「杉山さんは仕事をしないでパソコンで遊んでる」と言われてました。退職の日にフラッシュメモリを事務長に消去してくれと渡したところ、事務長は「杉山さん、すごい仕事してたんだね」と・・・
「今頃、何言ってるの???、あんた、それでも直属の上司かよ???」って感じでした。
もう一つは、きれいごとと批難する方もいらっしゃるかもしれませんが、公務員(公務員は全体への奉仕者である)であるのに人助けができないことにジレンマを感じていました。
例えば、税金の仕事をしていたときはヤクザさんや議員だと税金をもみ消す。
一方、悪徳不動産屋に騙されて不動産を取得したことになってしまった年金暮らしのおばあちゃんにカウンターで泣かれたことがあります。
こういう弱者に対してはそういうことはしませんでした。
なぜなら、「税金は取れるところから取れ」という風潮があるからです。
というより、そのように私は教わりました。
また、県立高校で事務をしていたときにすごくイヤだったのは、勉強についていけなくなった子供、人間関係(クラスメイト)がうまくできない子供等、本来であれば教員が職員室で昼寝(就業時間中)している時間があるのなら、なんらかのフォローをしてなるべく卒業できるようサポートしてやるべきところを、なんのフォローもせずに退学願を一枚書かせて校長もチョロチョロっと話を聞いただけで、決裁の印鑑を押印。
そして、私がその退学願を元に学籍から除籍する手続きをしていました。
私は、人助けができると思って公務員になったのです。
さかのぼれば、中学3年のときの担任の先生。
それから、高校に入学してからは鎌倉市役所の奨学金担当だった方等。
私を助けてくれました。
そんな事情から公務員をしていることに嫌気が差したんです。
当時の私の年収は37歳で600万円ありました。
安定もしています。
それでも、今、自分がしたいことはなんなのか?
と自問自答を二年間続けました。
答えは「子供たちの手助けがしたい」でした。
それで、学習塾経営の道を選択したわけです。
 
この前妻と学習塾をフランチャイズ(京進)で始めました。
学習塾でもいくつかありました。
ネットでいろいろ評判を調べたりもしました。
その中で京進は何年か前に講師が生徒を殺害した事件のあった学習塾で一番に候補から除きました。
しかし、前妻が話を聞くだけ聞いてみたらというので面談したところ、とても真っ直ぐな感じの方で事件のことを聞いたときも真実を隠すことなく話してくれた誠実さに惹かれ、京進を選択しました。
事前の話では、生徒が集まらない教室ほど本社から人を動因して生徒を集めるという話でしたが、まったくそういう事実はなく、コンサルタントが来ても5分くらいで帰るし、関東じゃ全く知名度がなく、大したノウハウもないのに加盟料260万円。
しかも、私の担当(面談)だった人に「このままだったら、教室閉鎖になります」と伝えたところ、「命がけでやりましょう」と力強い言葉をくれた割には、その後、音信不通になったと思えば、挨拶もなく退職していました。
その数ヶ月前でしょうか。
前妻がうつ病のような感じがしたので「体調が悪いのなら病院に行った方がいいよ」と言ったのですが「私は病気じゃない」というので、「絶対、病んでるよ」と言ったところ、上目遣いでものすごい形相で「病んだのはあんたのせいだからねっ」を二回叫んだあと、刃物を持って私に襲い掛かってきました。
私はそのとき「殺られる」
心の中で呟きました。
私は寸前のところで彼女から刃物を奪い取りました。
その後、私は彼女が怖くなり、一つ屋根の下に一緒にいて寝ることが怖くて怖くて仕方ありませんでした。彼女は私に対し、日常的に言葉と殴る蹴るの暴行を行っていたことも、また事実です。
常に寝たら殺されるかもしれないという恐怖感で、その五ヶ月後に離婚が成立。
しかし、なかなか家を出て行かなかったのですが、ある日突然いなくなりました。
数日後に何食わぬ顔で家にいたので「今、どこにいるの?」と聞きました。
すると「教えちゃいけないことになってるから」
私「えっ?」
前妻「本当は家に来ちゃいけないことにもなっている」との話だったので、よくよく話を聞けば、海老名市役所に生活保護の相談に行ったものの相手にされなかったらしく、泣きじゃくって「元夫からDVを受けている」と言ったら、即、シェルターに保護され、引越し先が決まり次第生活保護により生活を始めるとのことでしたが、日ごろからDVを受けていたのは私のほうで・・・
 
前妻はIBMでチームリーダーをしていたとのことでプライドだけは高くて仕事はできないのに口だけは達者パターン。
仕事のパートナーとしては私と彼女は合っていなかった。
家事のことや仕事のことの考え方の違いでギクシャクしていた部分はありました。
ある仕事の帰り忘れもしない相鉄大和駅で元妻に「この社会に適応できない障害者のくせにっ」と罵られました。
前妻はだんだんと仕事にも出なくなり、何もしないでクーラーガンガンの冷凍庫?ってくらい冷やしてほとんど寝て過ごしていました。
生徒数は少なかったのですが、生徒たちは私をとても慕ってくれて少しずつ紹介で増えていきました。
あと半年、経営するための資金があれば軌道に乗せられたのですが、前妻が私の退職金を使い込んでしまい、あっという間に資金難に陥りました。
私は、講師にも働かせて賃金を払わないとか生徒には授業も受けていないのに月謝を返さないというような終わり方だけはしたくなかったので、早めに教室閉鎖を決めました。
私は、お母さま方に叱られることを覚悟で各ご家庭に電話をしました。
あるお母様(今も親子揃って手紙をくれます。)には、「剛先生の今後を考えると・・・」と泣いてくださいました。
ほかのご家庭も急に閉鎖することになったことに対してとがめるどころか私のことを心配してくださる方ばかりでした。
そして、閉鎖の日にはお世話になったとお礼の品やらお手紙をわざわざ持ってきてくださいました。
塾で仕事をしているとき感じたのは「天職」ってこういう仕事をいうんだなと思いながら毎日が楽しくて仕方ありませんでした。
 
教室を閉鎖後はすべてのブースを自分で解体、床に貼られたカーペットを剥がす作業と3ヶ月かかりました。
弁護士さんに相談に行き、結局、収入がないのに借金が6000万円を超え、返済は不可能となり破産手続きする方向で依頼をしました。
結局、免責許可決定がされたのは弁護士さんに相談してから8ヵ月後でした。
 
以上、簡単ではございますが、私の自己紹介(経歴)を書かせていただきました。
それなりにいろいろな経験をしてきました。
私は病気になったとき「どうして僕が」と悲観したり、消えたいとさえ思いました。
ただ、病気になってひとつだけよかったなと思えることがあります。
 
それは、自分が病気になったことにより、それまで偏見を持っていたメンタル系の病の人の痛みがわかったこと。
そして、病気になるまで私はどんな相談事(他人が悩んでいるとき)もその人の立場になってものを考えれば必ず最良のアドバイスができるというおごりがありました。
でも、病気や離婚、事業失敗等の経験したことで、その人の痛みは同じ経験をしたものでないとわからないのだということに気づけたことです。
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